大洲

大森和蝋燭屋」さん..。内子でただ1件、伝統を守り続けているお店です。いつもは親子でお仕事。
ご主人は奥様が巻かれた芯に温めた蝋を塗っては乾かして作っていきます。

内子座 木蝋や生糸等の生産で経済的にゆとりのある時代に、芸術、芸能を愛してやまない人々の熱意で生まれた木造の劇場。農閑期には歌舞伎、人形芝居、落語、映画等の出し物が内子座を彩り、人々の心の糧として大切にされました。大正5年(1916)大正天皇即位を祝い、創建。木造2階建て瓦葺き入母屋造り。映画館等の変遷後、老朽化のために取り壊されるところ、町民の熱意で復原されました。昭和60年10月、劇場として再出発。現在では年間70,000余人が見学し、16,000余人が劇場を活用。約650人で劇場は一杯となります。

『大洲の町は、肘川の白っぽい河原に発達した。 まわりが山で、河原にも島のように小山を残し、かつては赤松の濃いみどりが川の瀬々に滴るようであったらしい。川はこのあたりになって大きな淵をつくり、その美しさは碧潭としか言いようがなく、その松と碧潭の景観のなかに童話のお城のような大洲城の櫓の白壁が映えていた。
 昭和三十年代のおわりごろ、はじめて大洲旧城を通過したとき、水と山と城が造りあげた景観の美しさに息をわすれる思いがした。』
   司馬遼太郎「街道をゆく 南予・西土佐の道」より

JTBのF本さんとバスガイドさんも「いつ止むんやろ?」「F本さんトイレは?」「隣の喫茶店へどうぞ」「うっそ〜もっと早く言ってくださいよ」と移動(右写真)。親切で明るいママさんや秋田のお客さんと話して、みかんもいただいてほっとした一時。どしゃぶりの中で駐車場を目指した方、ごめんなさい。

城に登る道は、新緑で溢れていた

4層4階の天守は、明治期の古写真や「天守雛形(ひながた)」と呼ばれる江戸期の木組み模型など豊富な資料をもとに平成16年(2004)に木造で復元したものです。
中に入ればお風呂のようにヒノキの良い香りがしました。心柱は大きく、今後日本でこんなに立派なお城が再建されることは無いと言われていました

大洲城
中世にあっては伊予国守護、宇都宮氏の居城として名をはせ、戦国時代以降、藤堂高虎などの名将の居城として歴史に名を残す大洲城。

その天守閣は約250年間に及ぶ加藤家の統治の後、明治21年(1888年)に取り壊されましたが、平成16年(2004年)9月に木造による大洲城の完全復元をしました。

天守閣は4層4階建てで、高さ19.15mは戦後復元された木造天守閣の中で日本一を誇ります。

 

かつての雄姿をそのままに、威風堂々とそびえる大洲城が、肱川の歴史を感じさせてくれます。

後一足で町並み保存地区と言う所で足止めを食っていた私は、ちょこっと傘を借りて走りパチリ。あわてて帰りました。前回は足が痛くそこまで行けなかった。どうも縁の無い町だ。
この後一路帰宅。陽が差してきた・・・トホホ。

お忙しい中を参加していただき、トラブルも事故もなく無事に皆様が帰宅できたことを感謝いたします。

車いすのお父さんを補助されていた素敵なお嬢さんとお話していたら、突然の雷で土砂降りに・・・

天守閣からは四方が望まれて良い気分

昼食 松之屋 伊予さつま定食に、きじ柳川風鍋と木耳こんにゃくが付きます

肱南の市街地の東端、肱川に近い一角に、江戸及び明治の面影を残す町並みが残っています。

この一帯で昭和41年のNHK朝のテレビドラマ「おはなはん」のロケが行われたことから「おはなはん通り」の名称で親しまれています。(左写真)

内子町は、江戸後期から明治時代にかけて、和紙と木蝋で栄えた町です。その当時の面影を残す八日市・護国地区の町並みは、今も美しい佇まいを見せ、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されています。

内子

臥龍山荘は、肱川随一の景勝地に臨む三千坪の山荘で、臥龍院・不老庵・知止庵と冨士山などを借景とした庭園があり、四季折々に深い趣を見せています。

おおず赤煉瓦館は明治34年12月に大洲商業銀行として建築されました。

建物は、イギリス積みの赤煉瓦構造で、屋根には和瓦を葺いた和洋折衷の造りとなっています。現在は、赤煉瓦の資料を展示した「れんが工房」や「ギャラリー」などがあります。

指し指の先に大洲城が見えるかな〜〜?